2008年7月 8日 (火)

教育立国(6)~機会の平等の徹底~

ここで国がなすべきことは何か?

まずは機会の平等の徹底である。いわゆる「読み書きそろばん」を公教育の段階で徹底的に身につけさせる。特に、幼児教育~中学校は重要である。親が教育に不熱心だと、この時点で極めて深い溝ができてしまうからだ。

いわばゆとり教育の逆を行き、平均レベルを上げるためにあらゆる手を尽くすべきである。当然、学ぶスピードは生徒によって異なるため、遅めの子へのフォローと、早い子へのよりレベルの高い教育の機会を与えることが必要だ。やり方は工夫次第でいくらでも考えられる。例えば東京都杉並区の和田中の事例などが参考になるだろう。

知識社会においては、「読み書きそろばん」は前提で、それがなければ競争のスタートにすら立てない。その部分を全国民規模で平等にできて初めて“公教育の再生”といえる。所得階層に関係なく、頑張る人は国も社会も、全力で応援する方針を立て、それを具体化する施策を徹底して行うことが重要である。一例として低所得層の家庭の子で、特に優秀な者が全寮制、授業料免除で最高の教育を受けることができる学校を各県一つずつ作ることを提案しておこう。

先に述べた職業教育を行うとともに、意欲さえあれば誰にでもチャンスがあるということを目に見える形で支援する体制をつくることが必要である。

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2007年9月12日 (水)

教育立国(5)~二つの職業人生と職業教育~

これまで述べてきた、経済の構造変化(知識社会化)は、いわゆるホワイトカラーの仕事に二極化をもたらす。仕組みを作る側と、その仕組みの上に乗って働く側である。

これは何を意味するのかといえば、

「会社に人生を委ねることができなくなった「大卒ホワイトカラー」という人生の安定度の低下」である。

ホワイトカラー業務の“仕組み化”は、企業の内部における組織特殊的人的資産、すなわち、“長期的な雇用関係を通じ、ある特定の会社においてのみ発揮できる技能を身につけた人材”の割合を減らす。いわゆるコア社員の割合が減ると言い換えてもいいだろう。ホワイトカラーの仕事が二極分化することを考えれば、必然的にホワイトカラーという道を選ぶことにリスクが伴うのである。

逆に言えば、大卒ホワイトカラー以外の職業の安定性が相対的に高まる。例えば接客に従事する人や、店舗の管理職、ライターなどフリーであることが当然の職業、手に技術をつけるような職業等は、汎用性が高く、ある職場や仕事を失っても、次の仕事を見つけやすい。弁護士、会計士、官僚、シンクタンク、マーケッター、コンサルタントなども、知識社会における新たな“職人”であろう。

従来から一つの組織で一生を終えることが予定されていなかった職業も多いのである。例えばホテルマンは、頻繁に職場を変えることでキャリアアップするのが当然とされている。一度しっかりとしたサービスの基本とホスピタリティの精神を身につければ、それはどのホテルへ行っても応用可能なものであり、即戦力として働くことができる。

ホワイトカラーとなることのリスクが上昇することで、組織への依存度が低い、これらの職業の安定性が相対的に高まるのである。これらの職業に従事する人をここでは“手に職”型の人材と呼ぼう。

職業教育のあり方を根本から変える必要がある。知識社会の中、仕組みを作り、差異を生み出す人材を目指す道を選ぶか、汎用性の高い能力を身につけていくか。こういった職業人生のありよう、職業観をリスクも含めて類型化し、ある程度の年齢に達した際にはしっかりと教育する必要があるだろう。

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2007年6月 3日 (日)

教育立国(4)~“差異化”の意味~

 前回のブログの意味をより具体的な事例で考えてみよう。利益の源泉が“差異”にある以上、差異を作ることができる人間は貴重な戦力となるが、それができない人間は相対的に低い戦力とならざるを得ない。

例えば、営業マン。かつて、作るだけでモノが売れた時代には、訪問件数さえ増やせば増やすほど営業成績を上げることができた。そして、まず必要なのは“根性”ということになる。

しかし、基本的にモノが売れない時代に入ると、いくら訪問件数だけを増やしても制約にはつながらない。消費者は、商品に関する知識を身につけ、ネットによって容易に価格を比較できる環境にある。そして常に“売り込まれる”ことを警戒しているのである。

そこで、営業マンに求められるようになったのは、見込み客集めと提案営業の能力である。具体的には、「見込み客を集め→アポイントを取り→効果的にPRして購買意欲をあおり→成約につなげる」ということである。この過程を効率的に実行できるのが優秀な営業マンとなった。

しかし、誰もが以上のような仕事を効率的にできるわけではない。少数の優秀営業マンに頼ることは経営者としてはリスクが大きい。そこで求められるようになったのが、以上の過程のシステム化である。見込み客集めや効率的な訪問、売れる営業ツールの作成、成約へのステップを、一つのシステムにし、会社全体で共有するようにすれば、誰がやっても売れるようになる。特定の営業マンに頼ることはなくなる。ただし、その仕組みを作る人間は必ず必要となる。

このように、仕組みづくりができる人材が重宝される時代になったのである。多くの営業マンはその仕組みにしたがって動くだけの社員となる。当然、“仕組みを作る人”との給与格差は開く一方である。

そして“仕組みを作る人”はどの組織に行っても必要とされるため、困ることはない。さらに言えば、いったん作り上げて有効に機能した仕組みも、時代の変化や競合他社のキャッチアップによりすぐに陳腐化するため、“仕組みを作る人”の必要性は低下することはないのである。

営業という職種に関する“差異化”とはこのような意味である。他の職種、例えば総務、企画、開発などでも、このことは当てはまる。

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2007年5月13日 (日)

教育立国

 当たり前のことから始めよう。日本は、採掘して売りさえすれば外貨を得られるような、資源を持たない国である。元来、火山活動が活発なわが国は鉱物資源の豊富な国であったが、経済・産業構造の転換によりその多くがコスト的にペイしない状況となった。特に現代において極めて重要な資源である、石油がほとんど算出しないということが、日本が加工貿易の道を歩むことを決定付けた。

 石油のほぼ100%、食料の約60%を輸入に頼っている日本は、海外からの輸入がなくなると忽ちのうちに生活難に陥るということになる。特に石油は重要で、石油がなければ肥料も作れないし、トラクターも動かせず、食料の供給も困難になってしまうのである。

 その日本で日本人が豊かな生活が送れるのは、言うまでもなく外国から資源を輸入し、それを原材料にして製品・半製品を作り、輸出しているからにほかならない。これを可能にしているのは、「日本人が作った製品が外国に売れる」という現実である。売れなければ忽ち日本人は飢える。

 それをもたらしているのは、人であり、組織であり、技術や知識や思想の集積であり、安定した政治体制であるが、決定的に重要なのは人である。わが国がどういった方針で“人づくり”をすればよいのかを考えることが日本の将来像を考えることなのである。

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2007年4月19日 (木)

○○というシステム

 前回書いたとおり、アメリカは、世界中の国から一番優秀な人材を集め、競わせることで国家の競争力を持つという仕組みを作り、頑なに守り続けている。これは“アメリカというシステム”なのだ。

 このシステムが機能している限り、アメリカ国内で格差社会がどんなに広がろうと競争力自体に影響は出ない。世界一優秀な人材達は、いつでも「一番稼げる職業」に着くことができる。製造業が衰退しても、金融やIT業界、弁護士、会計士等で世界を席捲すればよいだけの話である。

 最強の軍事力を背景に世界のエネルギー資源を抑え、ドルという通貨のパワーを維持し、会計基準や特許などの国際ルールを自国にとって有利なように変える努力を怠らない。これらの要素がすべて一体となって、アメリカの強さを支えているのである。

 アメリカだけでなく、グローバル化が進む中でも高い競争力を維持している国は、自らの強みをしっかりと認識し、それをさらに強化することを地道にやっている。例えば、スウェーデン、フィンランドと言った国は、高福祉の側面ばかりが注目されているが、ボルボやエリクソン、ノキアをはじめとして、高い技術力を持った企業が経済を支えている。

 それぞれ人口は1000万人以下であり、国内市場が小さいため、大幅な輸出依存経済とならざるを得ない。それを成り立たせるための工夫に国を挙げて取り組み、成功しているのである。それはスウェーデンというシステム、フィンランドというシステムを作るということにほかならない。
 
 日本においても、国力に関する大部分の要素を丸ごと含んだ、大きな視点から国のあり方を議論しなければならない。“日本というシステム”のあり方の再定義が求められている。他国の成功例を部分的に引っ張り出して、それをそのまま日本に当てはめればうまくいくといった短絡的な考えは捨てなければならない。経済・産業、労働・雇用、福祉、教育を含んだ構想を今こそ示すべきである。

 次回より、日本の将来像を描く。

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2006年12月 7日 (木)

格差社会の問題

 そして現在、日本人、特に若い世代の人生観に危機が訪れている。

 いわゆる“格差社会”の問題がそれであるが、この問題を議論する際には、そもそも何を持って格差ととらえるか、慎重な分析が必要となる。

 例えば、所得格差を示す指数としてのジニ係数が80年代以降緩やかに上昇していたりことなどから、中流層が崩壊し、高所得層と低所得層の二極化が進んでいるという分析がある。

 教育という観点でこの問題を捉えたものとしては、高学歴者の家庭の子どもが高学歴・高収入になる割合が上昇している事実に着目し、新たな階級社会の到来を示唆するものがある。

 また、生活保護需給世帯の増加や、いわゆるワーキングプアの増加、派遣社員数、フリーター数の上昇という事実から、格差社会の到来を見る見方もある。

 一方で、例えば経済学者の大竹文雄氏のように、所得格差の拡大は根拠に乏しいとする説もある。大竹氏によれば、ジニ係数が増えた主要因は、人口比率が多い団塊世代を中心とした年齢層全体が高齢化したことで、もともとは少なかった同世代内の所得差が、高齢化によってそのまま拡大したことだと主張する。統計的にはアメリカやイギリスで起こったような急激な賃金格差の拡大はないという。

 これまで私が論じてきた即時的行為の比重の高まりという観点から考えると、最も問題なのは、山田昌弘氏が指摘するような“希望の格差”である。「自分は下流だから学校でも仕事でも、努力したところで無駄」という絶望感を持つ日本人の増加は無気力を生む。逆に、勉強や仕事を通じて成長しよう、高い収入を得よう、社会で責任ある地位に着こうという若者が多いのであれば、現時点での統計上の所得格差などは問題にならない。

 ところが、現在の日本が前項に述べたようなリスク化する社会になっているにもかかわらず、そのリスクに正面から向き合おうとせず、およそ成功確率の低い夢を追った結果、正社員になることができず、低い収入しか得られず、結婚もできず、将来の希望が一切持てなくなるという若者が増えるという状況が生じつつある。

 また、さらに問題なのは「この世は格差社会」というイメージ自体が活力を奪うことである。生まれによって高い社会的地位を目指すことをあきらめる状況を生じさせる。

 これは、自らの世界観が塗り替えられないつまり思想の自由が少ない社会である。即時的行為の比重の高まりという実態に対して、社会や職場が対応できていない。職業生活によってその即時的欲求つまり、仕事それ自体により満足を得るという欲求が満たされていないということである。

 「日本が競争社会に入ったのだから、格差はあって当然、勝者に富の配分を増やすことで日本の活力は維持できる」という意見もあるが、まったくの空論である。

 アメリカのように全世界から有能な人物を集め、それらの競争により国家の活力を維持する国と、そのような状況が生まれない日本では目指すべき道が異なる。日本の社会の指導層につく者を、日本人の中の“勝ち組”の子弟という極めて少ない母集団の中から選抜するというようなことでは、より激烈な国家間の競争は到底乗り切れない。

 また、石油等の資源をもたない日本の最大の財産は“人間”であり、中でも世界に比して圧倒的優位なのはその平均レベルの高さである。“格差社会”はその強みをなくしてしまうのではないかという観点から議論されるべき問題であろう。

 一億二千万人の中から、出身階層に関係なく、全国民の中から選ばれた者が政治・経済・文化をリードし、日本を精神的にも文化的にも豊かな国にしていく社会を目指すべきである。

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2006年11月22日 (水)

社会のリスク化

これまで、即時的行為、手段的行為の比重の変化という観点から、日本人の人生観の変遷を見てきた。
縄文時代から、社会における予測可能性が次第に高まり、それとともに人は手段的行為に重きを置くようになったが、高度成長後(1980年代~)豊かさが絶頂に到達した後は、逆に即時的行為を重視する傾向が出てきたということであった。

それは社会に何をもたらしたのか。

即時的行為の定義をもう一度述べると、「行為とほとんど同時に目標の達成ないし満足を得ようとする行為」ということである。これを労働・仕事に置き換えてみるとどうなるだろうか。

それは、自分で思い描いたような職業に就き、思い描いたような内容の仕事をできるということを希望しているということである。現代の若者の多くはそれを“自己実現”と考えており、望ましい、当然のことと考えている。

これは、職業選択の自由が社会的にも経済的にも制限されていた時代とは180度異なる発想である。
しかし、かならず

希望や欲求の総和>実現の総和

となるわけであって、自己実現ができないというリスクが常につきまとう、不安定な社会となる。現実には自分の希望通りの仕事ができることは稀であって、そこで壁にぶつかった個人は自己不全感に陥るのである。

この点たとえば山田昌弘著「希望格差社会」などにくわしい。生まれた時の親の職業によって自分の職業もほぼ決まっていたような時代であれば、それ自体なんら不満を感じないのが通常である。しかし、現代では“自己実現”することがすばらしいし、当然であるという社会通念がある。そのような条件のもとでは、自己を実現できなかった場合のリスクを引き受けざるを得ないのである。

たとえば“夢”や“自己実現”を追うために、フリーターの道を選んだ者がそれを実現できなかったとき、40歳だったとする。そのとき彼はどうなるのか。絶望感から完全に無気力化してホームレスとなったり、逆に一生懸命働いても、極貧の状態、いわゆる“ワーキングプア”に陥るリスクがあるのである。

とはいえ、人間の精神活動の変化はとめることはできない。こうして「リスクを引き受けざるを得ない社会」が到来しているのが現代である。

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2006年10月31日 (火)

即時的行為への逆流

しかし1980年代に入り、豊かさが飽和状態に達したとき、
手段的行為と即時的行為の比率の逆流が始まった。
すなわち、“生まれた瞬間からすでに豊かな世代”の登場である。
右肩上がりの急成長は終わり、勤勉実直、頑張れば報われる
(経済的に豊かになれる)という時代は終ったのである。
それ以前に、“豊かになりたい”という目的自体が消え、当然そのための手段も必要がなくなった。
そこで求めらるのは、即時的な喜びである。

それにあわせ、求められる商品自体が変わった。大量消費、規格大量生産の時代から少量多品種、消費生活も多様化する。消費するモノに個性が求められるようになるし、それ以上にサービスが優位な時代となった。
生活には困らない人々に魅力的で多様な商品を、何処よりも早く、安く提供しなければならない時代となったのである。

それにあわせ、中核労働者と単純低賃金労働者の分離傾向はより強まる。
企業は固定費たる人件費を変動費にするために派遣社員、パート・アルバイトの比率を高めた。長く続いたデフレ経済はその傾向に拍車をかける。グローバル化による賃金の国際的な低水準傾向も同様である。

加えて、バブル経済以降根強く残る、資産を持っているやつには勝てないという感覚。
いわゆる“マネー敗戦”では金融のルールで資産を吸い取られ、やられた、正直者がバカを見たという感覚。

さまざまな要因が重なり、即時的行為の比率は高まる。まじめに(あるいはガマンして)働いて豊かになるより、生きがい、やりがいを最優先するという若者に多く見られる労働観はそれにより説明できるであろう。
“自分探しの旅”を続ける若者は、現代まで後を絶たない。現代においても、高卒・大卒で就職したもののうち、40%が入社後3年以内に離職しているのである。
正社員でいたほうがトクという観念はもはやない。

折からの不況と労働の二極化は新卒採用の数を大幅に減らし、ニート・フリーターが大量に生まれた。

 “勤勉”の美徳は消えた、と嘆くこともできる。しかし嘆くだけではなにも変わらない。それよりも、それで何が問題か、政治はそれに何ができるかという点が重要である。

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2006年9月10日 (日)

高度成長下の人生観

 産業社会、すなわち、一人当たりGDPの持続的成長が前提となる社会では、手段的行為の比率が高まっていく。

 第二次世界大戦後の日本は、再び復興、成長への道を進んだ。吉田茂~岸信介までの政権は、経済重視・軽武装というレールを敷き、その後の政権はレールに乗って見事に経済成長をなしとげた。

 日本人の多くも安定したレールの上を生きることを望んだ。ホワイトカラーの例で言えば、大学を出て会社に就職、がむしゃらに働いて結婚、中年になるころには管理職に昇進・マイホームを購入、そして定年まで働き、老後は年金で悠々自適の生活。といったような生き方が日本人の人生のストーリーの典型となった。

 それらのストーリーは、年齢を増すにつれて明らかに生活水準が向上するということで現実感を日本人に与えた。そして、誰もそのこと自体を当然と思うようになっていった。

  日本の会社をはじめとする産業組織もそれにぴったりと適合するものだった。終身雇用、年功序列、企業別組合など、共通の利益を目標とする組織としての会社は、人々の人生と不即不離の関係になった。手段的行為の最も発展した形態が、戦後日本の社会と言えるであろう。

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2006年8月17日 (木)

手段的行為の比重の高まり

 手段的行為の比重が高まっていく傾向は、決して一直線で上昇したわけではない。社会の秩序の安定にほぼ比例する。身分秩序や社会構成が大きく変わる大変動期南北朝の内乱や、戦国時代など、社会の大変動期には、即時的行為の欲求の割合が高まることがあったはずである。

 逆に社会の安定期には手段的行為の比重は上昇する。例えば江戸時代の町人の生活に手段的行為の比重の高まりが明確に見て取れる。商人の子として生まれた人間は、少年に達すると奉公に出され、奉公先で商売の技術をまなぶ。そして、ある一定の年齢に達するとのれん分けをしてもらい、自立する。その後妻を娶り、商売を継続・発展させるとともに後継者を育て、自分は楽隠居となる。

 このような、ある種の「型」がこの時代にはすでに出来ているのである。手段的行為の最終的な姿は、このような、人生のストーリーに沿って行動するということにあると言える。この傾向は産業社会の訪れによりさらに加速される。

 明治国家が誕生し、繊維を中心とした軽工業を皮切りに、本格的な産業社会が到来した。このようなストーリーがいわゆる「立身出世主義」に典型的に見られるように確立された。努力すれば家柄に関係なく出世できる、という希望は、日本という国家の置かれている状況とリンクしていた。

 明治維新から日露戦争に至るまで、欧米列強の植民地にならないことを目標に富国強兵、殖産興業を目指し、日本人はそれぞれの道を進んだ。このように、国家目標と、個人の目標が合致するとき、人々はそれぞれの道を自由に生きるのに最も適した環境を得られたと言えるであろう。

 もちろん、当時の日本は貧しく、それ故の制約はある。しかし、個人がある程度自由に「自分の人生」の全体像をイメージし、選び取るという発想がここに至って確立してきた。人生設計から逆算して現在の行動を決める、つまり手段的行為が生き方の中心となっているのである。

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2006年8月16日 (水)

即時的行為と手段的行為

 前回に述べた3つの観点から日本人の生き方の将来像を検討する。まず、多くの人間にとって重大事である、経済活動を中心とした生き方についてである。

 人間にとって、働くことで生きていく糧を得ることは、人生のかなりの部分を占める。日本の将来像を語るにあたり、避けては通れない問題である。ここでは、ある日本人がどのような人生観を持って働いてきたか、そしてどのような未来を描けばよいのか、政策的課題と方向性は何かについて考察する。問題を根本から考えるため、人間の行為の一般論からこの問題を見てみよう。

 ここでは村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎の共著「文明としてのイエ社会」に従い、人間の行為を2種類に分けて考える。それは、手段的行為と即時的行為である。手段的行為とは、ある目的に到達するための手段としての行為である。例えば、車を買うために貯金をするであるとか、出世するために会社で努力することなどが該当する。それに対し、即時的行為とは、行為とほとんど同時に目標の達成ないし満足を得ようとする行為である。例えば、食事をする、睡眠をとる、性交渉をするといったような行為がその典型である。

 当然、この2つの間には多種多様な中間段階があり、分離したものではないが、ここでは傾向を示すものとしてこの指標を使う。このような観点から、歴史的に日本人の生き方を考察し、現在の状況を考える。

 人類が誕生し、最初に築いた社会は、狩猟・採集社会であった。ここにおいては、即時的行為を満たすのが精一杯であったであろう。基本的には、その日の食料をその日に調達するような、短い期間を想定した行為が多かったと思われる。日本には四季があり、冬には狩猟・漁労・採集の効率は落ちるためそれへ向けての貯蔵は行われていた。

 縄文時代から弥生時代にかけ、日本列島にも稲作が伝えられ、食料の貯蔵が可能になって以降、人々の行為における手段的行為の割合は次第に増加してきた。まず農耕社会が成立すると、少なくとも収穫は1年のサイクルで行われたのであり、1年毎の目標に向かった行為を続けねばならない。

 経験を積むにつれて、将来のために品種改良を行うと言った手段的行為の割合は次第に増えてゆく。生産量を増大させる余地はまだ大いにあり、また、貨幣の流通が進むにつれて富の蓄積も可能となった。手段的行為の拡大は、基本的には生産量の拡大と、富の蓄積が可能と成り、これらについての予測可能性が高まるにつれて起こってきた現象であるといえる。

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