2006年8月13日 (日)

「人生」を中心とした将来像

 従来の「日本の将来像」は「国土の将来像」であった。

 戦後永らく保守政党が掲げた理念は「国土の均衡ある発展」である。人材、資源、エネルギーを地方から太平洋ベルト地域に集中し、生み出された富を地方に再分配する。やがては産業の拠点を地方へ配置しようとする。田中角栄「日本列島改造論」や、テクノポリス構想まで、ほとんど全てがそのような発想で日本の将来像が語られてきた。
 
 これからはそのようなストック中心の将来像の意義は低下しているのではないか。日本人の人生、ライフスタイルを中心にした将来像が求められているのではないか。

 実際今後の日本の課題とされているのは、教育、雇用・労働(格差社会の問題)、福祉、モラル、家庭や地域社会など、日本人一人一人の人生に大きくかかわるものばかりであり、国土の将来像という観点だけでは解決しきれないものばかりである。

 そこで、これから社会・国家といかなるかかわりを持っているかという視点で、日本の将来像を考察してみたい。

 前回のブログでで書いたように、日本人と社会のかかわりとして重要なのが、①人間が生きていくのに不可欠な経済活動に関する思考と生活様式、②国家、地域、学校、家庭を含めた広い意味での教育、③日本人と政治とのかかわりという3点がカギとなる。まずは①から順に検討し、あるべき日本の将来像を提示したい。

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2006年8月 3日 (木)

自由な社会実現への視座

 無限の自由などはあり得ない。誰も絶対に来ないような山の中で一人で暮らしている場合を除き、人間は、社会から絶対的に自由であることは不可能である。

 まず、人間がこの世に生まれてくることからして不自由だらけである。生まれてくる親を選べない、生まれてくる国を選べない、自分の顔かたち、肉体を選べない。これは、生まれてくる本人の意思とまったくかかわりがない。

 特に重要なのは、最初に習得する言語を選べないということである。言語というのは、それを話す民族の思考方法・習慣・文化が色濃く反映するのであって、最初に身につける言語が本人に与える影響は限りなく大きい。

 その意味では、人間は絶対的に自由なのではない。自己の世界観の形成していく自由を思想の自由と言ったが、世界観の形成には外的環境との応答が常にあり、この地球上にいるかぎりそれから逃れることはできない。

 自由の問題は、ある個人の社会との距離のとり方と言っても良い。生まれながらにして不自由な自己の環境を自覚した上で、いかに社会との距離をとるか、バランスをもってそれができるかということである。

 ここでは「社会」と書いているが、日本人にとってその最大の範囲は国家である。だからこそすべての日本人にとって日本の将来像を考えることは避けて通れない。

 個人と社会のかかわりとして重要なのが、①生きていくのに不可欠な経済活動を中心としたライフスタイル、②国家、地域、学校、家庭を含めた広い意味での教育、③政治とのかかわりという3点がカギとなる。この3点についてさらに具体的に考察していきたい。

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2006年7月30日 (日)

自由で活力ある国家へ

 (これまで述べてきた意味の)思想の自由が重視される社会は活力を生む。日々新たに、各人が自己の世界観を塗り替えていく社会は停滞することはない。

 イギリスの歴史学者アーノルド・トインビーは、文明の衰退の決定的原因を、自己決定能力の喪失にあると指摘している。世界中のあらゆる文明や国家の盛衰を研究した結果である。

 国民一人一人が、自己の世界観の新陳代謝を続ける社会が自己決定能力を失うことはない。なぜなら、世界観の塗り替えという行為は自己決定の連続にほかならないからだ。

「詩経」には以下の一文がある。

「周は旧邦と雖もその命は維れ新たなり」

 この一文は四書の一つ「大学」にも引用されており、明治維新の「維新」という言葉はここから採用された。

 原文の意味は、周は古くからある国ではあるが、その使命は日々新しくなっているということであり、日々変化をすることによる漸進的な国家の発展の理想を示したものである。

 日本人は、連綿と続く歴史をそのようにとらえ、ペリー来航以来の一連の出来事を「維新」という言葉で表現したのである。

 現在のような安定期においても、我々日本人は、それに安住することなく日々新鮮であることを求めていれば、将来にわたり活力ある社会を築くことができる。そのような社会を生み出す基盤が思想の自由である。だから私は考察の出発点をそこに置いている。

 前回述べた、思想の自由の三つのあり方を、いかにして日本社会は制度的に担保するのか。これは容易ではない課題であるが、次回以降に考察する。

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2006年7月 8日 (土)

思想の自由について(4)

前回のブログで書いた不自由の解決の3通りの方向を、さらに具体的に考察する。

1.自己の世界観の修正
 目の前の不自由に対し、自己の世界観を自ら変更することで対応することである。例えば、入社した会社において受け入れがたい理不尽なシステムや慣習があったとき、しばらく「がまん」する。そのうちに慣れ、そのうちそれを当たり前と思うようになるようなこともあれば、耐えられず、第二、第三の解決策へ移る場合もある。

 不自由の解決策としてはもっとも一般的なものであり、とくにその自己が修正しあわせた世界観が社会の一般的な価値観と合致するとき、後から自らの選択を正当化することが多い。

2.自己の世界観の現実化
 これは、1とは逆に、現状を変革し、自己の世界観を現実化することでそのずれをうめようとするものである。現在の現状を変革することは大きな力を必要とする。特に政治システムのような大きな社会変革を行おうとすれば、多くの人がが納得する思想を形成し、流布されねばならない。特に社会の一般的な価値観(世界観)と大きく対立する世界観を現実化しようとした場合、その思想は大きな摩擦を生み、主唱者は弾圧されるか迫害されることが多い。また、誰にも受け入れられず無視されることも多いであろう。

 一方、自分が移動し、自分の持つ世界観に近い世界に住む世界を変えることでも、自己の世界観を現実化したものと変わらない効果を得られることができる。また、社会変革とまでいかなくとも、自らが規定した新たな世界観に基づく生活様式を、自らの意思で守るということもこれに該当する。

3.それまでの自己の超越と客観化
 これは、現在自分が抱えている矛盾を超越し、自らをその苦しみから解放するものである。古来から行われてきたいわゆる宗教的な「修行」はこれに該当する。一旦自己を超越しても、その自己をまた超越する必要が生じるという無限の循環に陥りやすい。「解脱」であるとか「神託」などの境地に達するには相当な厳しい鍛錬が必要となり多くの人にとっては耐え難いことと思われる。しかし、例えば鎌倉仏教における「専修念仏」などは、仏教における高度な知識と手順の体系を習得することなく、一般の人々が自己を超越する手段を提供した。

 このような営みが思想の自由の実践にほかならない。そして、思想の自由が保証される社会とは、こうしたことが行われる環境が整った社会である。世界観の形成が行われやすい社会が、活力ある社会と言い換えることができよう。逆に、思想の自由の否定は人間そのものの否定である。なぜなら、先に述べたように、思想の変化は人間に本来的に備わった業のようなものであるから。

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2006年7月 3日 (月)

思想の自由について(3)

 行動の自由は思想の自由を必ずしも保障しない。確かに、肉体的な苦痛を与えられている状況で冷静な思考を維持することは難しい。行動の不自由が思想の不自由をもたらす場合は多いであろう。

 しかし、例えばヨガの修行などでは、真の自由はむしろ自らを肉体的・精神的に追いつめることで得られると考えられている。そこまで極端な例を考えなくても、例えば自己の欲望を自己でコントロールできなくなるという不自由は誰しも経験したことがあるはずである。

 自己の持つ世界観と現実のずれが不自由であるとすると、解決の方向としては3通りある。一つは、自己の世界観を現実にあわせて修正することであり、二つ目は、自己の世界観を現実の変革によって実現することである。そしてもう一つは、そのような不自由を感じる現在の自己を客観化し、より上位の自己へと超越することである。

 すべての人間が程度の大小はあれ、人生の過程で不自由に直面したときこの3つのいずれかを解決策として選んでいる。特に前者の二つはどちらかが極端に現れることはあまりなく、その組み合わせで解決していくことがほとんどと思われる。次回、それぞれについて典型的な事例を想定してみる。

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2006年7月 2日 (日)

思想の自由について(2)

 自由が論じられるとき、「ある人が何かをしようとするときに制約がないこと」つまり行動の自由として議論されていることが多い。しかし、これはあまりに即物的で単純すぎる。

 自由の本質はなによりも思想の自由である。例えば金の力により大抵のことはかなってしまう大富豪が常に思想の自由を手にしているとはいえないであろう。

 そして、思想の自由の本質は、各人が各人の世界観を形成する自由である。

 人間は常に外的世界と自己を区別し、外的世界に対するイメージを常に形成している。外部の人間や自然との応答において、世界観をつねに塗り替えていく。それが人間と動物を区別する特徴であるともいえる。自己の思い描こうとする世界観と、現実とのずれが不自由というものの正体にほかならない。

 人類は世界観を常に塗り替えるというこの特徴を持っているがために、大きな苦痛と大きな快楽を感じるようになった。ある者は政治体制の変革によって自己の思い描く世界観を実現しようとし、ある者は、その才覚によって巨万の富を築き、行動の自由を手に入れることで、思想の自由を手に入れようとした。またある者は自己を超越し不自由を感じてしまうこと自体からから開放する為に果てのない修行に打ち込んでいったのである。

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2006年6月29日 (木)

思想の自由について

 さて、これから具体的な日本の将来像を描いてみたいと思う。
 まず最も大切なことを考察する。

 日本人が最も大切にすべき価値は何か。それは思想の自由である。
 人類の歴史は自由を求める葛藤の歴史である。といってもこれは奴隷制が廃止されたとか、身分制度が廃止されたといったような現象を指しているのではない。それより根源的な、思想の自由を求める歴史である。

 人間の精神は常に動き、変化している。それは、どんなに秩序だった社会であるとしても、誰も止めることができない。

 社会がもっとも安定するのは、その社会を秩序づけている統治機構や法、習慣、思想を、人々が当たり前のものと捉えている時である。厳格な身分制度があり、低い身分に属する者がいたとしても、その状況を当たり前と捉えていればそのこと自体は何ら苦痛に感じることもないであろうし、不自由とは思わないであろう。しかし、その状況が長く続くことはない。

 そして現在の状況を不自由と思うようになる者が現れ、具体的な運動をはじめる。それは誰もとめることができない。きっかけは様々で、外部からの情報(例えば日露戦争の日本の勝利が、アジアの各植民地に与えた影響)の場合もあるし、突然に目覚めるときもある(例えば啓示を受けたムハンマドなどの宗教指導者)。

 いずれにせよ、自由を求める精神が具体的行動に移り、個人の考えから社会に広まりはじめると、どんな権力によってもそれは抑えることができない。人々が、現在の秩序を不自由と感じたとき、社会の変動がおこり、それが後世には歴史の大きなうねりとして残されていくのである。したがって、およそ将来像を考えるような時には、思想の自由の問題を避けて通ることはできない。

 これからしばらく、思想の自由の内容と、いかにして日本人はそれを守っていくかについて論じる。

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