2006年6月20日 (火)

世界が羨む国へ(3)

 日本が世界に示すべきは、“異文化を理念的に拒否せず、自国の伝統や文化に合うように取り入れる”という姿勢そのものである。

 これは、人間の理性と技術の進歩により、人間は理想的な状況に到達できると考える、“進歩主義”とは正反対の思考様式である。先に述べたとおり、全ての人類を共通の人工的理念で統合することは不可能であるとすれば、そのような姿勢が見直されるべきではなかろうか。

 海外から来た新しい政治制度・文化・技術を受け入れ、自国向けに取り入れることについては、日本はおそらく世界で最も柔軟な姿勢を持った国の一つである。漢字、仏教、儒教、律令制、鉄砲、キリスト教、洋服、立憲主義、議会制民主主義など、例をあげるときりが無いほどである。しかもこれらの概念のほとんどが、矛盾を感じることがなく重ねあわせられ、現在進行形で生きている。

 このような、思考様式の形成には地政学的な要因が大きいように思われる。日本列島はユーラシア大陸の東端に位置し、世界中の文化の最終到達点とも言える位置にあった。日本海、東シナ海によって大陸と隔てられた日本は、「侵略はされにくいが、文化の流入を妨げるほどではない」という微妙な距離感を大陸と保ち、他国の文化や技術を咀嚼し、独自の文化へと発展させたのである。

 ユーラシア大陸の遊牧民の襲来を受けることがほとんどなかった(例外として刀伊の入寇と二度の元寇がある)日本にはそれだけの余裕があった。外国から入ってきたものはひとまず“熟語”や“カタカナ”で読んでおき、いつのまにかもともと存在したかのように定着してしまう、独特の言語構造にも読み取ることができる。

 時には“原理原則がない”などと批判されるこの姿勢、思考様式こそが、人類共存のモデルとなりうるのではないだろうか。

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2006年6月10日 (土)

世界が羨む国へ(2)

 20世紀は価値をめぐる戦いの世紀であった。世界のあらゆる地域で、戦争、テロ、クーデター、革命・反革命の嵐が吹き荒れた。

 価値をめぐる戦いは“正義”の戦いでもある。ここでは詳述しないが、「ある規範を皆に同じ条件で適用すること」という正義の性質から、そこには常に他者への武力による思想の強制が伴ってきた。

 東西冷戦が終わり、国際関係は超大国アメリカの覇権安定的な状況へと向かった。覇権安定の理論では、覇権国がその時代ごとの国際公共財を独力で供給し続けることが安定の条件となる。例えば19世紀、覇権国であったイギリスは金本位制と自由貿易体制の維持につとめた。

 しかし、アメリカは国際公共財の維持や国際的な合意に対して気を払わないことも多い。例えば、2002年にアメリカが打ち出した「アメリカ合衆国国家安全保障戦略」、いわゆるブッシュ・ドクトリンでは、独自の判断によって、独力で「先制行動」に踏み切ることを表明している。また、国連分担金の支払い滞納や、京都議定書を批准の拒否、など、一国主義的な傾向も強く見られる。

 アメリカの一国主義的な行動や、あるいはその掲げる理念自体に反発を覚える人々には、とかく投げやりな心理が支配しがちである。アメリカの行動を抑制する手段がないからである。結局それらの人々にとっては、現実問題としてテロ以外の抵抗策が無い。

 アメリカもヨーロッパもイスラムも、中国も全て含んだ、個々の文化も思想もすべて超越するような新たな抽象的理念や政治思想を新たに模索する道もある。しかし、それが可能であったとして、全世界に普及・浸透させるのはやはり武力でしかなく、共産主義の試みと同じ失敗を繰り返す可能性が高い。

ここで、他国の文化を自国に馴染むように解釈した上で受け入れる日本の国柄が、ある解決の道を提示しているのではなかろうかと私は考える。次回にその具体的内容を述べる。

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2006年6月 8日 (木)

世界が羨む国へ

 尭舜孔子の道を明らかにし
 西洋器械の術を尽くさば
 何ぞ富国に止まらん
 何ぞ強兵に止まらん
 大義を四海に布かんのみ

 これは、幕末の思想家、横井小楠(熊本藩士)が二人の甥の洋行にあたり送った詩である。この詩が書かれたのが1866年(慶応二年)。明治維新が終わりに近づいた時である。

 この時点ですでに「富国強兵」路線の限界を指摘し、「大義」を日本が率先して行うことを説いている。小楠は、一見普遍的な理念に見える万国公法(国際法)を始めとした欧米の論理の背後にあった国家的エゴイズムを鋭く見抜き、それは「尭舜孔子の道」に反すると考えていた(このことは、小楠の対談録である、沼山対話・沼山閑話等に明確に述べられている)。

 小楠は「尭舜孔子の道」という理念に基づく政治であれば、それを具体化する手段は何でも良く、必要に応じて取り入ればよいという考えであった。そして、道を実践するべき内容は、一つの藩、一つの国、一つの世界に共通であって、その道を日本が率先して行うことで、世界が同じ道を歩むようになると考えていたのである。

 この発想自体は、当然儒教から来ている。儒教では、天下をうまく治めるための根本は個人の修養から説明する。例えば「大学」では、修身(個人)→斉家(家族、一族)→治国(国)→平天下という順序をとるべきとされる。また、「孟子」では「至誠にして動かざる者、未だ之あらざるなり(まごころをもって接すれば心を動かされない者など一人もいない)」とあるように、他者は良いものに触れると感化されていくという発想が根底にある。

 ここに、日本人の、世界に対して取るべき姿勢が示されているのではないだろうか。日本が選んだ道を世界が手本とするような、良いところをどんどんまねされるような、世界が羨む国。そのような道を国家として選び、それを誇りとする。これが日本の選ぶべき道ではないだろうか。

 決しておせっかいを焼く必要はない。日本人は、日本人が幸せに生きていける、世界に国づくりをし、他国がそれを良いと思えば真似ればよい、ということを基本スタンスとするべきなのではないか。

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2006年6月 7日 (水)

国家とは何か(4)

 世界がひとつの国(世界政府)になってしまえば、国家間の戦争はなくなる。しかし、世界はなぜ190余りの国家に分かれているのであろうか。そのことを考える必要がある。そのようなことが現実に可能なのであろうか。

 国家は国民一人一人の政治的想像力の産物である。ここから思考はスタートしなければならない。

 社会契約説では、自由な意思を持つ個人が、契約によって国家を作るという論理構成をとる。仮に、それだけで国家が成り立っていると仮定すれば、各個人が、現在の契約を一旦廃棄し、世界政府設立契約を結び直せばよいということになる。

 しかし、現実にはそうはならない。人類全体で国家を形成するほどの同質性意識が無いからである。歴史的に形成された同質性意識なしで(社会契約説のみに基づいて)国家は存在し得ない。

 世界の国々が190カ国に分かれているのは、同質性意識の多様性に由来する。世界にはそれだけの価値観があり、正義があるということである。これは、社会契約論からは一切説明することができない。さらにいえば、その190カ国でさえ、例えばルワンダのように国内に複数の民族を抱え、紛争が絶えない国もあるのである。

 異なる民族・文化・言語・習慣を持った人類が、一つの国家をつくるということは、思想の強制なしにはありえず、不可能であると私は考える。

 とはいえ、私は社会契約説自体を否定するものではない。現代の国家において、社会契約説的な国家観も必要不可欠であると考える。ただ、社会契約説のような多分にフィクションを含んだ社会思想だけで人類を統一しようという発想をつきつめると、必ず思想の自由を侵害し、悲劇をもたらすであろうということである。

 それよりは、異なった人たちが異なる文化・習慣によってそれぞれ国家を形成するという事実を認め合ったうえで、協同の可能性を模索する道を人類は選ぶべきではないか。

 では、日本は世界に対してどのようなスタンスで望めばよいのだろうか。次回以降で述べる。

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2006年6月 6日 (火)

国家とは何か(3)

 さて、これまで、歴史的に形成された同質性意識が国民国家の範囲を確定し、国家として存立せしめる基盤となると述べてきた。

 そのような役割を持つ、もうひとつが「社会契約説」である。これは、17世紀の西洋で誕生した政治思想である。

 ここでは、国家とは、自由な個人が契約によって政府を設立したという論理がとられる。それは、政府の存在根拠に論理的な裏づけを与える役割を果たしている。社会契約説の生みの親である、ホッブズ・ルソー・ロックがいずれも政府の正当性を論点に議論を進めていったことからもわかる。

 特にロックの人間形成論、自然権としての所有権の理論、統治論は、現在の議会制民主主義の理論的基盤となっている。私たちもなんとなく、選挙によって自分たちの代表を選び、その代表が自分の国を統治するというイメージを持っている。政治家は公約(つまり選挙民との契約)を当選と引き換えに履行するというイメージはまさに社会契約的である。

 したがって、国家とは「歴史的に形成された同質性意識」と「社会契約説的国家観」という二つの政治的想像力によって、私たち一人一人の心に生み出される意識である、と考える。この二つの異なる概念が、私たちの中で渾然一体となって国家イメージを形成しているというのが実態ではなかろうか。

 このブログでは以上の国家観のもと、日本の将来像について考えてみたい。なお、私は国民国家の枠組みを解体する議論(例えば世界政府)はとらない。その理由は次回に書きたいと思う。

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2006年6月 4日 (日)

国家とは何か(2)

現代国民国家の存在根拠は、「国民」という概念が中核である。ではそれを成り立たせているものはなんなのであろうか。


そのような抽象的概念を存在せしめているのは、われわれの想像力である。例えば同じ言語を話すということ、同じ民族であるということ、同じ宗教を信じているということ、共通の歴史を持つということ、共通の慣習や文化をもつこと、何らかの理念を共有していることなど非常に多種多様であり、国ごとにあり方も異なっている。ここではこれを「同質性意識」と呼ぼう。


nation(国民)の語源であるラテン語natioは、「おのずから生まれたもの」という意味である。これは、国民が、自然発生的に形成されたものを根拠としていることを示している。


ただし、ここでいう「自然発生的」というのは、必ずしも人間の意図から離れて形成されたという意味ではない。「歴史的に形成された」という程度の意味である。


中国やアメリカのような、理念で国家を統合している傾向の強い国は厳密には国民国家と呼ぶべきではないという議論もある。しかし、理念で統合されている国であっても、誕生した瞬間から歴史を持っており、そのイメージから逃れて存在することはできないのである。


これらの共通の基盤(同質性意識)が弱い国は、常に崩壊の危機にさらされている。前回ユーゴスラヴィアの例を書いたとおりである。逆に言えば、同質性意識があれば、一度消滅した国家が復活することも十分可能である。たとえばポーランドは18世紀にプロイセン・オーストリア・ロシアに分割されたが、現在も存在するし、永らく国家を持たなかったユダヤ人はイスラエルを建国したのである。


さて、本日は国民国家の根源的な存在根拠として、同一性意識をあげた。実は、現代の国民国家には、もうひとつの大きな存在根拠がある。次回はそれについて述べる。

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2006年6月 3日 (土)

国家とは何か

 日本の将来像を考えるにあたり、まずは国家とはなにかを考えてみる。


 「国家」は一般的によく用いられる言葉であるが、論者によってさまざまな意味で用いられており、私が考える国家の定義を表明する必要があると考えられる。


しばしば用いられるのは「国家」=政府という定義である。「政府」とは、通常、行政府(内閣に属する官僚組織)のみか、あるいは立法・司法・行政の三権を指す。例えば、国家行政組織法、国家賠償法という法律があるが、その法律名で用いられている「国家」とは、まさに政府を指すであろう。


戦後なされてきた国家論の多くは、国家を政府と同義か、国家という言葉が含む要素の大部分を行政機構ととらえ、いかにその権力の横暴を防ぐかという議論であった。その議論は、個人の権利をいかに権力から守るかという傾きを強く持っている。そこでは弾圧する国家(政府)から個人がいかに脱するかが主要なテーマとなり、議論の中心は、個人と政府の関係に収束していく。それはそれで重要な論点ではあるが、私は、「国家」=「政府」であるという定義をとらない。それでは議論の範囲が狭すぎるのである。


国家の定義を、このブログでは以下のように規定する。国家とは、人間の歴史的・政治的な想像力の産物であり、我々の心の中に存在する意識である。


伝統的な国際法によると、国家の三要素は主権と領土と国民であり、それが国家であるとされる。


では、この三要素は極めて抽象的なものである。その三要素を結び付け、さらに抽象的な存在としての国家を存在させているのは、何かを考えなければならない。それは、我々国民一人一人が持つ国家意識にほかならない。


我々は、身分の等しい日本人であるという意識を強固に持っているが、まさにそのこと自体が国民国家を成り立たせているのである。その意味で、三要素のうち、「国民」という概念が、国家の核心となっている。逆に、そのような意識を誰も持たなくなった瞬間、その国民国家は崩壊するであろう。たとえばユーゴスラヴィアは、ティトーというカリスマ的指導者が死んだ後、たちまち分裂の動きが加速した。


このような国家は、通常国民国家と呼ばれ、現在世界を覆うほとんどの国家が国民国家と言ってよいであろう。国民国家は、他から干渉されない絶対的な主権を持ち、その主権が一定の領域に確立しており、何らかの同質性意識を持つ国民が存在する。


国家を読み解くカギはその同一性意識にある。次回はそれについて考察する。

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