そして現在、日本人、特に若い世代の人生観に危機が訪れている。
いわゆる“格差社会”の問題がそれであるが、この問題を議論する際には、そもそも何を持って格差ととらえるか、慎重な分析が必要となる。
例えば、所得格差を示す指数としてのジニ係数が80年代以降緩やかに上昇していたりことなどから、中流層が崩壊し、高所得層と低所得層の二極化が進んでいるという分析がある。
教育という観点でこの問題を捉えたものとしては、高学歴者の家庭の子どもが高学歴・高収入になる割合が上昇している事実に着目し、新たな階級社会の到来を示唆するものがある。
また、生活保護需給世帯の増加や、いわゆるワーキングプアの増加、派遣社員数、フリーター数の上昇という事実から、格差社会の到来を見る見方もある。
一方で、例えば経済学者の大竹文雄氏のように、所得格差の拡大は根拠に乏しいとする説もある。大竹氏によれば、ジニ係数が増えた主要因は、人口比率が多い団塊世代を中心とした年齢層全体が高齢化したことで、もともとは少なかった同世代内の所得差が、高齢化によってそのまま拡大したことだと主張する。統計的にはアメリカやイギリスで起こったような急激な賃金格差の拡大はないという。
これまで私が論じてきた即時的行為の比重の高まりという観点から考えると、最も問題なのは、山田昌弘氏が指摘するような“希望の格差”である。「自分は下流だから学校でも仕事でも、努力したところで無駄」という絶望感を持つ日本人の増加は無気力を生む。逆に、勉強や仕事を通じて成長しよう、高い収入を得よう、社会で責任ある地位に着こうという若者が多いのであれば、現時点での統計上の所得格差などは問題にならない。
ところが、現在の日本が前項に述べたようなリスク化する社会になっているにもかかわらず、そのリスクに正面から向き合おうとせず、およそ成功確率の低い夢を追った結果、正社員になることができず、低い収入しか得られず、結婚もできず、将来の希望が一切持てなくなるという若者が増えるという状況が生じつつある。
また、さらに問題なのは「この世は格差社会」というイメージ自体が活力を奪うことである。生まれによって高い社会的地位を目指すことをあきらめる状況を生じさせる。
これは、自らの世界観が塗り替えられないつまり思想の自由が少ない社会である。即時的行為の比重の高まりという実態に対して、社会や職場が対応できていない。職業生活によってその即時的欲求つまり、仕事それ自体により満足を得るという欲求が満たされていないということである。
「日本が競争社会に入ったのだから、格差はあって当然、勝者に富の配分を増やすことで日本の活力は維持できる」という意見もあるが、まったくの空論である。
アメリカのように全世界から有能な人物を集め、それらの競争により国家の活力を維持する国と、そのような状況が生まれない日本では目指すべき道が異なる。日本の社会の指導層につく者を、日本人の中の“勝ち組”の子弟という極めて少ない母集団の中から選抜するというようなことでは、より激烈な国家間の競争は到底乗り切れない。
また、石油等の資源をもたない日本の最大の財産は“人間”であり、中でも世界に比して圧倒的優位なのはその平均レベルの高さである。“格差社会”はその強みをなくしてしまうのではないかという観点から議論されるべき問題であろう。
一億二千万人の中から、出身階層に関係なく、全国民の中から選ばれた者が政治・経済・文化をリードし、日本を精神的にも文化的にも豊かな国にしていく社会を目指すべきである。
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